夕日に背中を押され、自分の影と遊ぶかのような足取りで家への道を辿っていた菊丸は、いつものように通り過ぎようとしていた公園に何か引っかかりを覚えて、ふと目をやった。
ポツンと1人ベンチに座っているのは、見間違えるはずもない大好きな彼女。
(あれってやっぱちゃん?!・・・今日用事があったんじゃなかったけ?なんでこんな所にいるんだろ?)
それでも偶然の出会いは嬉しいもので。
脅かそうかなんてちょっとしたイタズラ心も出てきたりして、気付かれないようにそっと足を踏み出した。
気付かれていないか確認しようと改めてを見やって、菊丸はハッとした。
―――――はとても辛そうな、泣きそうな顔をしていた。
そんな顔今まで一度も見た事がなかった。
彼女はいつも笑っていた。いつしかそれが当たり前のように思っていたが、そうじゃない。
必要以上に彼女をかまうみんなに心配かけまいと無理をしていたんだと、今更ながらに思い知らされる。
菊丸は心臓を掴まれたような息苦しさを覚えた。と、同時に拳を握る。
(こんな顔させてるのって――――ひょっとして俺?)
溜息の理由は今だ不明。
その表情の理由も同じ所にあるような気がした。そしてそれが自分のせいなら・・・。
いてもたってもいられなくなった菊丸は思わず駆け出していた。
彼女の視線と溜息の理由 〜中編
「ちゃんっ!!!」
突然かけられたよく知っている声にビクッと驚いて顔を上げる。もちろんそこにはよく見知った顔。
大きな猫目がよく動き、表情豊か。どちらかと言えば愛らしい顔立ちで、明るく元気な太陽のような眩しい笑顔は、見ているこっちまで笑顔に変えてしまう力がある。
実の所、は何度もその笑顔に救われていた。
思わず弱音を吐きたくなる時や落ち込んだ時でも、その屈託のない笑顔を見ていると自然に笑みがこぼれた。
そう、菊丸の笑顔はの笑顔の源だった。
・・・しかしそんな普段の菊丸からは想像も出来ないくらいの真剣な顔。
それはテニスの試合中でもたまにしか見る事が出来ない本気モードの顔。いや、それ以上だった。
初めて自分に向けられる菊丸の真剣な強い眼差しに、胸がうるさい位高鳴り、それに動揺しつつもはどうにか返事を返した。
「菊丸せんぱ・・・い?どうしたんですか?」
どうしたと訊ねられて、どう話を切り出せばいいかまで考えていなかった菊丸は、一瞬戸惑ったが、ここまできたら直球勝負とばかりにその問いに行動で答えた。
は今自分がどういう状況にいるのか理解出来ていなかった。
目の前が真っ暗で、自分のものでない鼓動が聞こえてくる。自分を包む暖かい温もりを感じる。
ようやく少し頭が働くようになり、抱きしめられていると認識したとたん、羞恥心が体中を駆け巡った。
どうにかこの状況から脱出すべく身体を捩ってみたが、細いが引き締まった筋肉のついた両腕はの力くらいでは少しも緩む事はなかった。
「あ、あの、き、菊丸先輩っ!は、離して、くれません、か?」
「イヤだ」
あまりにあっさりと却下され二の句が継げないでいた時、そのままの体勢で菊丸が答えた。
「ちゃん・・・・・・俺何かした?」
「???」
菊丸のその発言に、は思わず今の状況も忘れ、頭に疑問符を浮かべただけだった。
「ちゃん、最近ずっと俺の事見てるだろ?そして溜息ついてる。・・・俺気付かないうちにちゃんに嫌な思いさせてたかなって気になってさ・・・」
「え?!あ、いや、あ、あの――――」
「もし、もしそうなら―――俺自分が情けない。・・・好きな子に見つめられて、嬉しくて1人有頂天になってて・・・。ちゃんの溜息の理由なんか二の次だった。・・・最低だよな・・・。そんな辛そうな顔させてるのに・・・」
次々と思いもしなかったセリフを浴びせられ、は固まってしまった。
(・・・今、菊丸先輩―――何て言った?情けないって何が?・・・好きな子って?誰が?え?あれ?)
パニックになった頭で、とにかく整理をしようとあれこれ考え「聞き間違いよね?」などと勝手に思っていただったが、抱きしめられている腕が緩んで離れたのに気付き、ふと顔を上げる。
そこには、熱を帯びた真剣な瞳。
「俺、本気だよ?誰にも負けないくらい、ちゃんの事が好き」
先程の言葉が聞き間違いなんかじゃないと思い知らされ、は身体中の熱が顔に集まったんじゃないかと思うくらい頬が火照るのを感じた。
その瞳に映っている自分が信じられなくて、思わず俯いてしまう。
真っ赤になって下を向いてしまったに一瞬切なげな視線を向けた菊丸だったが、にぱっ!といつもの笑顔で笑って言った。
「ちゃん、返事はいいよ。あ!もちろんたとえどんな答えでも聞かせてくれるに越した事はないんだけどさっ!・・・でも、俺にはその返事聞ける資格にゃいもんな」
「え?」
はまだ頭が働かないながらもその言葉が気になって、下に向けていた顔を上げる。
「・・・あ、あの、資格って、なんですか?」
「にゃ?だって、覚えがないとはいえ俺のせいであんな辛そうな顔させてたのに、それに全然気付かないにゃんて―――」
「あ、いや!それは!ち、違うんです!!菊丸先輩のせいなんかじゃないんですっ!!」
急に声を荒げたかと思ったら、菊丸の学生服にしがみついてきて、泣きそうな表情で下から見上げて必死に訴える。
その瞳は涙で潤んで、しかも夕日が映り込んでキラキラしていてとても綺麗だった。
菊丸は告白した時よりも更にうるさい心臓を自覚して、自分の中の抑えきれない感情にそのまま従った。
「・・・・・・ホントに?」
さっき自ら解いた腕を、もう一度そっと小さな背中に回して抱きしめる。
咄嗟に自分からしがみついた事に気が付いた時には、再び菊丸の腕の中に捉えられていた。
急にまた恥ずかしくなったが、でも今はとにかく誤解を解くのが先決とばかりに、必死に何度も頷いた。
「ほ、本当です!た、確かにわ、私――菊丸先輩の事見てましたけど・・・でも!溜息ついたりしたのは先輩のせいじゃありません!」
「・・・そっか・・・。あ〜〜良かったぁ〜〜〜〜〜!」
菊丸は心の底から安堵の溜息を漏らすと同時に抱き締めた腕に力を込めた。
「せ、先輩!あ、あの―――そろそろ離して、もらえません、か?」
それに慌てたの声がうわずる。
まるで怯える小動物の如くちょっと震えるような声で―――顔を赤くしてしかも瞳は潤んだままで―――懇願する。
(・・・そう言われてもにゃあ・・・)
そんな顔されると余計離したくなくなるのが男の性というもので、離すどころかその先まで進んでしまいたくなるのが正直な気持ちだった。
しかしまだ溜息の理由を聞いていない。・・・それに1番肝心なの気持ちも。
菊丸はあまりに先走る自分の気持ちに苦笑したが、すぐにイタズラを思いついた子どものような笑顔で言葉を継いだ。
「だって抱きついてきたのちゃんだもんにゃ〜〜」
「え、あ、そ、それは――――って、しがみついただけです!だ、抱きついた、なんて・・・」
「へへっ。どっちもおんなじおんなじ〜〜!」
「そ、そんな事ありませんっ!」
「ん〜〜〜。じゃあちゃんの返事聞かせてくれたら離してあげる♪」
「え、えぇ?!」
「じゃなきゃ離さないもんね〜〜〜!」
は真っ赤になって腕の中でバタバタ暴れていたが、その内諦めて視線を菊丸に向けた。
その途端、イタズラっ子のような笑顔が、ふいにまたあの真剣な表情になってをドキッとさせた。
(・・・菊丸先輩・・・ホント猫みたいに表情がクルクル変わる・・・目が離せない・・・)
お互い吸い寄せられるかのように暫く見つめあっていた。
それだけで伝わる何かがあったが、それでもやはり菊丸は言葉にして欲しかった。
の口から聞いて、より確かなものにしたかった。
「・・・聞かせてくれる?」
菊丸の窺うような声にハッとなり、はひとつ深呼吸した。
持っているすべての勇気を振り絞るように、またそっと菊丸の学生服を掴んでその手に力を込めた。
「わ、私も――――好きです。・・・菊丸先輩が・・・ずっと好きでした」
もう限界とばかりに視線を逸らして俯いた。
言葉にしてしまえば少しは落ち着くかと思った心臓は、高鳴りっぱなしで相変わらずうるさかった。
しかし、やっとの思いで言葉にしたというのに何も答えが返ってこず、は不安にかられ恐る恐る顔を上げると、そこには固まったままの菊丸がいた。
「・・・せんぱ、い?」
「い――――――」
「・・・・・い?」
「いやったぁ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!」
「きゃあっ!!」
菊丸はを抱えあげるとその場でクルクル回りだした。
振り落とされないように思わず菊丸の首にしがみつく。急な行動にビックリすると同時に恥ずかしくて、止めて欲しいと抗議の声をあげようとした。
しかし菊丸の本当に嬉しそうな顔を見て何も言えなくなった。それは今まで見た事がない幸せそうな笑顔だったから。
いつもその笑顔から元気をもらってばかりだったは、自分が言った事でこんなに喜んでくれている菊丸を見れてとても嬉しかった。
(少しは私にも何か出来る事がある・・・のかな?―――大好きな人の為に)
そんな事を思っていると、回るのを止めた菊丸がストンとを降ろしてジッと見つめてきた。それだけでまた心臓が苦しいくらい早鐘を打つのが分かる。
「先輩?」
「・・・英二」
「え?」
「名前で呼んで?」
「・・・え、えい、じ先輩」
「むぅ〜〜〜!もっとちゃんと〜!」
「――――え・・・・英二先輩」
名前を呼ぶだけで恥ずかしくてまともに顔が見れなくなる。
菊丸はすぐに俯きそうになるの顎に手をかけると、クイッと上にあげ、そっと自分の顔を寄せた。
は急に近づいて触れた温もりが何かすぐに分からなかった。
そっとその温もりが遠ざかって、目の前には照れたように笑う笑顔。
「っ!?」
目を丸くし、慌てて両手で口元を押さえて動揺を隠そうとしたが、頬がそれを裏切ってみるみる赤くなる。何か言いたいがビックリしすぎて言葉も引っ込んでしまったようだった。
菊丸はそんなをいとおしげに見つめて、嬉しそうに笑いウインクをする。
「にゃはっ!よく出来ました!ご褒美だよん〜!」
「き、き、菊丸先輩っ!!」
「あ〜〜〜!違うだろ〜〜〜!!・・・・・今度はおしおきっ!」
「きゃっ!・・・・んっ・・・・」
腕を捕まれて引っぱられたかと思ったら、抱きしめられてさっきよりずっと長いキス。
息苦しさを覚えながらも幸せに包まれて、は何も考えられなくなっていた。
ただ願うのは、いつまでもこの暖かい腕の中にいたいという事だけ。
(・・・でもちょっとくやしいからそう思った事は秘密だもんっ!)
結局、ちゃんと返事をしたにもかかわらず、菊丸はを抱きしめたままいつまでも離そうとはしなかった。
まるでそう願ったの気持ちに気付いているかのように・・・