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今日も空を見上げる。
あの人と繋がっている空を。
栞理はいつの間にか癖になってしまったこの行動に苦笑しつつ、いつもの場所へ向かって歩き出した。
―――あの人が帰ってくるべき場所へ。
帰るべき場所は虹のたもと
One day
「おはよう!今日も早いな」
「あ、おはようございます!大石先輩だって早いじゃないですか」
「斉藤には勝てないよ」
「えへへ、私が大石先輩に勝てる事ってこれくらいですから!」
朝練の始まりに2人だけで交わす会話。このやり取りは、いつの頃からか2人にとって日課になっている。
朝一番に、誰よりも早く会える、話せる。大石は、ずっと以前から密かにそれを楽しみにしていた。
しかし今はこの想いに多少の罪悪感を感じずにはいられない。
そしてその原因である今ここにいない人物の事を思い出さない日は一日もなかった。
「今日の朝練のメニューは、レギュラーはストレッチとコーン当て、他の部員はストレッチと走り込み、筋トレ。これで良かったですよね?」
「あぁそうだな」
「じゃあ私ボールとカラーコーンの準備して来ますね!」
テキパキと準備を進める栞理に、大石はいつも手伝いを申し出る。断られるのが分かっていてもどうしても言わずにはいられない。
案の定「大丈夫です!」と答えが返ってきて苦笑して、改めて感謝を込めて声をかけた。
「本当、斉藤がマネージャーで色々助かってるよ」
「・・・大石先輩。いつもそんなに感謝のバーゲンセールしてると、私調子に乗っちゃいますよ?」
「ははは、こりゃ大変」
「・・・・・・でも、お世辞でもやっぱり大石先輩にそう言って貰えるの、凄くうれしいです」
「お世辞なんかじゃないさ。・・・・・・斉藤がいるから手塚も安心してリハビリに専念出来るんだよ」
そう言って柔らかな笑顔と眼差しで栞理に向き合う。
一瞬きょとんとしてその笑顔を受け止めた栞理だったが、同じように柔らかな優しい笑顔で笑って大石の心臓を高鳴らした後、ふと真面目な顔になって言った。
「・・・私じゃないです。皆さん全員が頑張っているのが分かるから―――ですよ。そうですよね?大石部長代理?」
「いや・・・・・・あぁ。そうだな」
(・・・でも・・・リハビリに専念しているのは、一日も早く帰りたいから・・・テニスをしたいのはもちろんの事だけど、何より斉藤がいるから・・・斉藤のこの笑顔を見たいから―――だよな?手塚)
暑くなりそうな日差しが窓から入り込んで頬を照らし、大石は眩しそうに手をかざして遮りながら窓の外へ目をやり、雲の流れを見つめた。
「栞理ちゃ~~ん!」
「菊丸先輩お疲れ様です!はい、どうぞ!」
「にゃ~!サンキュ~!」
いつも元気な菊丸は受け取ったタオルで顔を拭きつつ、ちょこんと栞理の隣に腰を降ろす。
ドリンクを飲んで一息つけると、思い切り伸びをしながら空を仰いだ。
「ふ~~~。思いっきり動いた後は気持ちいいにゃ~!」
「菊丸先輩、今日も絶好調ですね」
「もっちろん!全国まで負けてらんないかんな~!!」
「はい!絶対連れて行って下さいね!!」
「OK~!まかせてちょ!!」
「連れて行って下さい」・・・この言葉が自分だけに向けられたものではない事を菊丸は分かっていた。
例え同じ言葉でも、特別な感情を込めた栞理の言葉を受け取れるのは、いつも眉間にシワを寄せた無愛想な人物ただ1人。
それが悔しくないかと言えば嘘になる。それを自分に向けて欲しいと願っていないと言えば嘘になる。―――しかしそれでも叶えたい栞理の願い。
栞理の為に今自分が出来る事は、沢山笑わせて少しでも手塚の不在を忘れさせる事。そして全国に向けて持てる力をすべて出し切る事―――菊丸は自らにそう使命を課していた。
「菊丸先輩の笑顔って、見ていると元気が出るんですよね」
「にゃっ?ホント?!だったら俺ずっと笑っていよう~~っと!!」
「あはは、ホントですか?」
「ホントホント!栞理ちゃんの前では絶対に笑ってる!!手塚が帰ってくるまで毎日ず~~~っと笑ってる!!・・・・・・あ」
誓っていたのについ出してしまったその名前。菊丸は内心で自分自身を罵った。しかし元来ポーカーフェイスが苦手な菊丸は思い切り表情に、果ては態度にまで出ていた。
栞理は、気を使わせてしまっている申し訳なさと同時に、菊丸の優しい心遣いが嬉しくて、胸が一杯になった。
「・・・心配かけてごめんなさい」
「ほぇ?」
「でも、大丈夫ですよ?・・・だって皆さんがいてくれるから。それに―――菊丸先輩が元気をくれるから・・・」
「っ!?・・・・・・まいったにゃ~~」
「?」
(元気貰ってるのは俺の方だなんて・・・分かってないんだろうな~。ま、そんな所も大好きなんだけどね~~。・・・てっづか~~!早く帰ってこないと栞理ちゃん取っちゃうかんな~~~!!)
菊丸が再び大きく伸びをしながら内心でつぶやいた声にならない声は、少し暮れかかった藍色の空に吸い込まれていった。
「栞理ちゃん、お疲れ!」
「あ、河村先輩。お疲れ様です!」
「あれ?今日は1人?」
部活が終わった帰り道。いつもなら誰かしら見慣れた顔が栞理の周りにいる。
河村はそれを不思議に思いながらも、2人だけという偶然に少しばかり感謝した。
「えへへ、たまには1人でボーっとしながら帰ろうかなと思いまして、皆さん誘ってくれたんですけど断っちゃいました」
「あ、ゴメン!じゃあ俺も邪魔だったね」
「あ、いえ!そんな事ないです!・・・河村先輩なら大歓迎ですよ」
深い意味じゃないのは分かっていても、少し恥ずかしそうにそう言って笑う栞理にドキドキし、嬉しさの余り浮かんでしまう笑顔を押し込めた。
努めて普通に「ありがとう」とお礼の言葉を言いながら、河村は今ここにいない人物に内心で謝った。
「うわぁ~・・・綺麗ですね」
「うん、そうだね」
帰り道、川に架かる橋の上から夕日が見える。「・・・ここでよく夕日を見たんです」と言う栞理に、河村は声をかけることが出来ずにいた。
「誰と」という言葉が抜けていたが、それが誰かは聞かなくても分かっていた。
そんな思い出の場所に自分がいて良いのか。それとも自分だから良いのか―――。聞いてみたいけれど聞けない自分に苦笑する。
「大歓迎」以上の言葉が欲しいと思ってしまう自分も確かにいて、でもそれは求めてはいけないものだと、河村は自らを戒めるように首を振った。
暫く何も言わずに2人で沈む夕日を眺めていたが、ふと隣にいる栞理に目をやると、切なそうな、だけどそれをグッと堪えているような表情を浮かべていた。
初めて見るその表情に、河村は胸が傷んだ。
「・・・手塚、早く帰ってくるといいな。あ!帰ってきたらうちでパーティしような!」
「はい!・・・・・・あ、帰って来てすぐじゃ「そんな事してる場合じゃないだろう」とか言って怒りそうだから、もう少し先に延ばして、全国大会優勝記念パーティと一緒にしませんか?」
「あはは!そうだね!・・・そうなるように頑張るよ」
「ファイトですよ河村先輩!!」
(・・・気にしてるのに、普段表に出さないから溜め込んじゃうんだよな。・・・手塚、早く帰ってこいよ。あんな栞理ちゃんの顔、俺、見たくないよ)
河村はいつもの笑顔に戻った栞理にホッと安堵の溜息をついて、もう1度祈るように夕日を見つめた。
「!?・・・・・・斉藤?」
「あ、薫君!会えて良かった~」
時間は夜も10時を過ぎようかという頃。そんな時間に1人で薄暗い公園にいる女性がまさか自分達の大切なマネージャーの栞理であると、誰が予想できるだろうか。
トレーニングのし過ぎでついに幻覚を見るようになったか、と、らしからぬ事を思った海堂だったが、その密かに想いを寄せる愛しい幻覚が、いつものように柔らかな笑顔でこちらに近づいてくるものだから驚いた。
「お、お前・・・どうして・・・・・・」
「前に乾先輩に薫君ならこの公園だろうって教えてもらってたの」
「・・・そ、そうか・・・・・・って、いや!そうじゃなくて!!こんな時間に何やってんだ!?」
いつものマイペースな会話に流されそうになった海堂だったが、思い切り頭を振って栞理を問い詰めた。
そんな海堂の剣幕に少しも動じる事無く、栞理はバックの中からあるものを取り出してすっと海堂に差し出した。
それは、部活で見慣れたドリンクボトル。乾の作るものとは根本的に違う、本当に疲れが取れる栞理の愛情たっぷりのドリンクだった。
「はい、差し入れ!」
「っ!?」
「毎日こんな時間までご苦労様!本当に凄いよ!・・・でも、絶対に無理だけはしないでね?・・・誰一人欠ける事無く、全国に行くんだから・・・」
「・・・・・・・・・」
最後の台詞を言う頃には少し俯き加減になっていたが、それでも栞理は笑っていた。・・・テニス部メンバーにしか分からないくらいの、ほんの少しの寂しさを浮かべて。
「邪魔しちゃってゴメンね?それじゃあね!」
「おぃ待て!・・・・・・帰るぞ。送って行く」
「え、いいよ!1人で帰れるし」
「バカか、女だって事少しは自覚しろ。こんな時間にうろつきやがって・・・・・・誰一人欠けずに行くんだろ?全国。お前もその中に入ってるだろーが」
「っ!・・・・・・うん、ありがとう・・・」
「フン。・・・・・・それに、ここから1人で帰してもし何かあったら、手塚部長に怒られるのは俺だ」
「え?何?」
「・・・・・・なんでもねぇ」
(・・・第一、もし今コイツに何かあったら部長より何よりまず俺自身が許せねぇ。・・・こんな時くらい守らせて貰っても・・・良いっスか?・・・それがダメなら―――)
公園の外灯で出来た自分達の影に目を落とした海堂は、ふと視線を夜空に向け、「―――少しでも早く帰って来て下さい」と、漆黒の空にひときわ輝く月に祈った。
One day
「チーッス」
「あ、リョーマくんおはよう!ちょうど良かった、はいこれ!」
栞理はニコニコしながらリョーマに差し出した。
いつでも誰にでも笑顔を見せる栞理。しかし媚びるような笑顔ではなく、本当に自然にこぼれて来るような笑顔。
その笑顔の多くを手に入れて、尚且つ栞理の一番の笑顔の素になる人物は、現在ここにはいない。
今向けられている眩しいくらいの笑顔は確かに自分に向けられているもの。期間限定でも構わないと思えるくらい、この笑顔が好きで・・・。
熱病に浮かされたような軽い眩暈を覚えながら、リョーマは差し出されたものに無意識に手を伸ばして―――手を止めた。
「・・・なんスかコレ」
「見て分からない?」
「・・・・・・・・・どう見ても牛乳なんスけど」
「どう見ても牛乳だね」
相変わらずニコニコしながら差し出してくる2本の牛乳。
受け取ろうとしないリョーマに無理やり握らせて「よし!」と満足そうな顔をした栞理の意図が分からず、溜息を付きつつ訊ねる。
「・・・で?いきなりなんなんスか?」
「部長が帰って来た時に驚かそうよ!『テニスだけじゃなくって、背も伸びたんだよ~!』って!!」
「・・・・・・・・・一体何年帰ってこないと思ってるんスか・・・」
「だ、だって!・・・・・・それくらい長く思えるんだもん・・・」
年下の気安さからなのか、リョーマにはいつもつい本音を見せてしまう栞理。
リョーマは、それが自分だけの特権だと分かってはいても内心複雑でならなかった。
「・・・・・・ずるいっスね、部長は」
「え?何が?」
「・・・なんでもないっス」
「?」
(離れてる間くらい・・・出てこないでよ。アンタの留守は俺が守るつもりなんだから。テニス部はもちろん、栞理先輩も、ね)
リョーマは渡された牛乳の蓋を開け、「もちろん留守の間だけじゃなくてもいいし」などと考えながら、空を仰いで一気に飲み干した。
「栞理~~」
「・・・・・・」
「いい加減機嫌直してくれよ~~」
昼休みの教室で桃城は必死に栞理を宥めていた。机の上には既に空になった弁当箱と100円玉が一枚。桃城は申し訳なさそうに頭を掻いた。
「フンだ」
「悪かったっ!ホントわりぃ!!」
栞理はさっきから桃城と視線を合わせようとしない。
可愛らしい口を尖らせて怒っている横顔を見つめながら必死に謝っている桃城だったが、その一方で「怒った顔も可愛いよなぁ」と思ってしまう自分に苦笑した。
「『ハラ減って死にそうで昼まで待てないから弁当食わせてくれ!学食のスペシャルA定食おごるからさ!』なーんて言っておいて、手持ちが100円ってどういう事よ~~!嘘つき~~~!」
「嘘ついたんじゃねぇって!昨日の帰りにこづかい使っちまった事すっかり忘れてたんだよっ!!」
桃城が自分で持ってきていた弁当は、朝練が終了した時に部室でしっかり食べていて、3時間目が始まる頃にはすでに空腹で眩暈がしていた。
その時ふいに斜め前に座る栞理のカバンが目に入った。毎日きちんと自分で弁当を作って持ってきている。
栞理の手料理はテニス部メンバーにとっても最高のご馳走。
普段なら何らかのイベントでしか口に出来ないそれを―――手塚は毎日食べていた。
改めて、羨ましさと悔しさと切なさが込み上げてくると同時に、無性に栞理の弁当を食べたくなって、そのような提案を持ちかけた桃城だったが、ご覧の通りである。
昨日使ったこづかいと言うのも、部活の帰りに買い食いをした為と言うのは、鈍い栞理ですら想像するに難しくなかった。
「部長に『桃くんは部活後買い食いばかりしてます』って言いつけてやる~~」
「ゲッ!勘弁してくれよ~~~!・・・お前の弁当食ったってだけでもばれたら充分怒られるってのに・・・」
「え?なんでそれで怒られるの?」
「・・・・・・・・・分かってねぇなぁ、分かってねぇよ」
「?」
(・・・きっと部長が今一番食べたいと思ってるは・・・他でもない栞理の弁当だろうな。・・・部長、早く帰って来ないと俺が毎日喜んで食っちまいますよ~~!)
「メシ代明日必ず払うから立て替えてくれよ~」と言って栞理を学食に誘い、小さい背中を押しながら廊下に出た桃城の目に、窓の向こうの眩しいくらいの青空が飛び込んできた。
「・・・乾先輩?いますか?」
「あぁいるよ。入って」
「・・・失礼しまーす」
昼間でもなんとなく薄暗いような気がする科学室。
それは今の乾から醸し出されている独特の怪しい雰囲気のせいなのか、はたまた別のもののせいなのか、栞理には分からなかった。
「・・・例のもの、持って来てくれたかい?」
「あ、はい。これですけど・・・一体どうするんですか?」
「フフフフフ」
笑い声をあげた乾に訝しげな視線を送り、栞理はふと乾の手元を見る。
ずらりと並んでいる試験管やビーカーには実に色取り取りの液体が入っている。・・・それらはテニス部員を幾度も瀕死の憂き目に合わせてきた怪しい液体。
「・・・まさか・・・」
「ご名答」
「えぇっ!!こ、これを入れるんですかっ!?」
「そうだ」
「だ、だって!!うっ、うな茶ですよっ!?」
「ウナギは非常に栄養価が高い。有名なのがビタミンAだが、それ以外にも倦怠・疲労感に効果のあるビタミンB1、B2、D、Eも多く、バランスが良い。その上亜鉛、鉄分、カルシウムも含有している。ちなみにビタミンAは、皮膚や細胞の保護・発育を促して強め、細菌に対する抵抗力を増進する。ビタミンB1は、消化液の分泌を促進させ、糖質を分解する酵素を助けエネルギーに変えていく。また脳などの神経系統の調節も行うので、これが不足するとイライラしたり集中力がなくなったりする」
黙って乾の説明を聞いていた栞理は思わず、はぁ、と感嘆の溜息をもらした。
「さすがですね~」と言って笑う栞理につられて乾も笑みが零れる。・・・この笑顔を見て他のどんなものより癒されると感じるようになったのは・・・いつだったか。
乾がそれを自覚した時には、栞理に一番近いポジションには手塚がいた。それでも溢れてくるこの想いは止める事など出来そうもない。・・・理屈ではなかった。
「どうだい?ドリンクの材料には持って来いじゃないか?」
「なっ!?そ、それとこれとは話が別です~~~!!」
「そうか・・・。残念だな。せっかく作って手塚に送ろうと思ったんだが・・・」
「っ?!お、お願いですから止めて下さい~~!!」
「分かったよ。・・・じゃあ折角だし、俺が頂いてもいいかい?」
(斉藤が手塚にしか作らない、手塚の好物。・・・こんな事でもないと食べられないからな。一度くらい良いだろ?手塚・・・)
苦笑しながら差し出されたうな茶を受け取ると、「二度目がないうちに帰って来い」と呟きながら立ち上る湯気を見つめた。
乾の視線の先で湯気は緩やかな螺旋を描きながら空気に溶けて行った。
「栞理ちゃん」
「あ、不二先輩、お疲れ様です!」
「・・・ここで何をしてるの?」
各クラスの下駄箱の並ぶ玄関。そこでボーっと突っ立っている栞理を見て、不二は首を傾げた。
帰る準備は出来ているようだが、なぜか一向に帰る気配がない。
「・・・もうすぐ夕立が来そうなんですよね」
「・・・あぁ、確かに風が雨を含んだ匂いがするね。・・・フフ、そうか。家まで急いで走って帰るか、雨が降るのを待って止むまでここにいるかで悩んでいるんだね?」
「む。何で分かるんですか~?!」
「分かるよ。栞理ちゃんの事なら何でも・・・ね?」
見透かされて悔しいのか少しムッとした表情で上目遣いに睨んでいた栞理だったが、不二のその一言でカッと頬に赤みが差す。
赤い顔で戸惑って視線を彷徨わせる栞理が可愛らしく、ついいつもからかってしまう不二だった。からかうといっても喋っている事はすべて本音だったが、栞理は一向に気づく気配はなかった。
「じゃあここで第3の選択肢を提示するね?・・・僕のカバンの中に傘が1本入っている。一緒に帰って、降ってきたらこの傘を使う・・・・・・どう?」
「わ、いいんですか?ありがとうございます!」
2人並んで歩き出し暫くすると、案の定雨が降り出した。不二は急いでカバンから傘を取りだし、栞理が濡れないように注意しながら差しかける。
その時ふいに、やはり今の自分と同じように栞理を気遣いながら傘を差しかけている、まっすぐ伸びた背中が―――後姿が脳裡に浮かび、苦笑した。
時折話しながら笑顔を見せる栞理に、不二は同じように微笑んで返しながらゆっくり歩く。
そんな緩やかな時間の流れに、不二は思わず、「この時が永遠に続けば良い」と考えてしまい、慌てて内心で首を振る。
手塚がいなくなって、栞理が心の底から笑う事が減ったように感じているのは不二だけでない。
普段から笑っているけれど、手塚がいた頃と明らかに違う笑顔。
もし今が永遠に続いたなら・・・栞理から本当の笑顔は、それこそ永遠に失われてしまうだろう。それだけは不二には耐えらそうもなかった。
「あ、雨上がりましたね!」
「・・・そうだね。・・・ねぇ栞理ちゃん」
「はい?」
「手塚が帰ってきても・・・時々はこんな風に僕と帰ってくれるかい?」
「・・・え?どうしたんですか急に?」
「ん?・・・なんとなくかな」
(・・・手塚がいてもいなくても、僕らの関係は変わらない・・・悔しいくらいにね。でも唯一変わるのは―――栞理ちゃんの笑顔。・・・早く見せてよ・・・ねぇ手塚?)
不二は、「もちろんですよ!」と笑顔で予想通りの返事を返した栞理に微笑みかけ、手にしていた傘をたたみながら、雲間から覗いた太陽に目を細めた。
「よぉ栞理」
「?!」
家まで送ると言った不二に、雨があがったのでここまででいいとお礼を言って分かれた帰り道。
思いがけない人物に声をかけられ、栞理は目を丸くした。
ただそこに立っているだけで、通りすがりの人々の目を惹く存在。性格は似ても似つかないのだが、その圧倒的な存在感はどこか手塚と似ていて、栞理は内心動揺した。
その動揺を見抜いたのか、嬉しそうに口元を緩ませて近づいてくる。栞理は思わずその分だけ後ずさりした。
「・・・・・・跡部さん」
「他人行儀だな。景吾で良いって言ってんだろ?」
「な、何で私が跡部さんを名前で呼ばなきゃならないんですか!?それに他人ですってば!」
「フッ、そう照れんなよ。近いうちに他人じゃなくなるんだからよ」
「どっ、どうしていきなり話が飛躍するんですかっ!?」
跡部と話しているとどうにも調子が狂ってしまう栞理。それでも、相変わらずの跡部の俺様ぶりについ苦笑した。
「なんでこんな所にいるんですか?氷帝からはずいぶん遠いですけど」
「あーん?わざわざお前に会いに来てやったに決まってんだろ?」
「・・・・・・・・・」
かみ合わない会話に疲れ、栞理は黙り込んでしまった。跡部はそんな栞理を見て相変わらずの笑みをもらした。
―――初めて会ったのはあの試合の時。
手塚に彼女がいると聞いて「あの堅物にか?」と驚き、次に無性に興味が沸いた。
青学のマネージャーをやっていると知り、顔を見てやろうと足を運んだ青学ベンチ。レギュラーメンバーはそれぞれウォームアップに行っているようで、それらしい女生徒が1人いるだけだった。
跡部が背後から近づくと、戻ってきた仲間だと思ったらしい栞理の、振り返った瞬間の笑顔・・・。
いつも身近で媚び諂う様な笑顔しか見てこなかった跡部には特に、その威力は大きかった。
「え?あ、あれ?氷帝の―――」
「・・・おぃ」
「な、なんでしょう?」
「俺の女になれ」
いきなり思いがけない台詞を言われ、栞理は目を丸くして固まった。
そんな栞理にお構いなしで、跡部が更に言い寄ろうとした瞬間、戻ってきた青学レギュラー陣に割って入られ、初対面はバタバタと終了した。
こちらを振り向かせる自信がある跡部は、例え今は自分を見ているのではないにしろ、そこに栞理がいる、それだけでいつも以上に気合が入る自分に苦笑しつつ、念願のライバルとの試合に望んだ。
・・・そして試合の後、声も上げず、ただ静かに涙を流す栞理を見て、少し前に見たあの眩しいくらいの笑顔を曇らせた原因が、少なからず自分のせいである事に、試合の内容と同じくらいやるせない、苦い思いを噛み締めていた。
(・・・そんな顔見たくねぇ・・・俺が見たいのは・・・)
急に、自分と同じように黙り込んでしまった跡部に疑問を浮かべて、首をかしげて見上げている栞理。
そんな何気ない仕草でさえ愛おしく思える。
「まさかこの俺様が一目惚れだなんて・・・焼きが回ったな」と自嘲気味に呟いて、頭に疑問符を浮かべたままの栞理に向き直った。
「手塚が帰ってきたら伝えてくれ。万全の状態のお前を今度こそコテンパンに叩き潰してやるってな」
「・・・部長は絶対負けませんよ」
「フッ、言うじゃねーの。・・・じゃあ賭けようぜ?俺が勝ったら俺の女になれ」
「えぇっ!?ま、また何言ってるんですか?!冗談は止めて下さいっ!」
「冗談なんかじゃねぇよ。それに・・・手塚が勝つって信じてるんじゃねぇのかよ?あーん?」
「っ!・・・・・・わっ、分かりました!」
「くくっ、約束だぜ?」
(さぁ、負けられない理由が増えたな。それでこそ張り合いがあるってもんだぜ。・・・でもさっさと帰ってこねぇと、俺様に出し抜かれてるかも知れないぜ?手塚よ)
再びポツポツと雨が降り出し、車で送らせようと思ったが、十中八九断られるだろうと苦笑した跡部は、傘代わりに自分のスポーツタオルを栞理の頭にかけてやり、「じゃあな」と自らは車に乗り込んだ。
滑るように走り出した車の窓の外、跡部が流れる景色に目をやると、再び顔を出した太陽に照らされキラキラと反射する川面が映った。
雨はあれからすぐに上がって晴れ間も広がって来た。その向こうに見え隠れする鮮やかな青に、栞理は目を細めた。
時々空を見上げながら歩く。そうして栞理はここ何日かの出来事を思い出していた。
皆それぞれの思いで、それぞれの表現で、手塚の帰りを待っている。
早く帰ってきて欲しいと待っているのは、願っているのは・・・自分だけじゃない。
栞理はそれが嬉しくて、自然に笑顔がこぼれていた。
「――――――栞理」
「っ!?」
自宅にたどり着き、玄関を開けようと手を伸ばした瞬間背後からかけられた声に、栞理は金縛りにあったかのように動けなくなった。
自分の想いの強さから、ずっと聞きたいと思っていた都合のいい幻聴が聞こえているのではないか。栞理は思わずそう自分の耳を疑った。
そしていつまでも振り返る事が出来ずにいたのは、振り返ってそこに手塚がいたとしても、やっぱり幻ではないか、振り返ったら泡のように消えてしまうのではないか・・・と思ってしまったから。
「・・・栞理」
一瞬のうちに栞理の中を駆け巡ったさまざまな戸惑いは、再びかけられた声に打ち消された。
間違える訳がない。忘れる訳がない―――大好きな声。
人形のように少しぎこちなく、ゆっくり振り返った栞理の視線の先には、穏やかな笑顔を浮かべて佇んでいる手塚の姿があった。
「ぶ・・・ちょう?」
「今帰った」
「・・・本当に?」
「本当だ」
「・・・い、一時的に、とか?」
栞理はまだ信じられないのか、恐る恐るといった感じで訊ねてくる。
随分長い間離れていたのだからしょうがないと苦笑しつつ、手塚は今更ながらにその時間の長さを―――1人の時間を思った。
肘、肩の故障による苦悩。テニスが出来ないという焦燥感。そしてそれらと同じくらいの、栞理に会いたいという恋慕。
リハビリが進むにつれて少しずつ収まっていく苦悩や焦燥感とは反比例して、日々募っていく想い。手塚にとっては、こんなに栞理が好きだったのだと改めて思い知らされた時間だった。
そして栞理に会えた瞬間に、胸の奥から込み上げてきたこの喜びは、その想いが真実だと手塚に教えていた。
目の前の栞理は相変わらず不安に瞳を曇らせている。手塚は優しく、そして栞理が安心するようにきっぱりと告げた。
「いや、違う。医者からもトレーナーからも、正式に許可が出た」
「・・・それじゃあ・・・」
「あぁ、もうどこにも行かない」
「っ!!」
ずっと会いたかった手塚から、ずっと聞きたかった声で、ずっと聞きたかった言葉を告げられ、栞理は堪えていた涙が次々と溢れ出すのを止める事が出来なかった。
そんな栞理の様子をいとおしげに見つめていた手塚は、すっと一歩を踏み出して2人の距離を縮め、栞理をそっと腕の中に閉じ込めた。
「・・・・・・会いたかった」
「・・・っ、わ、私もです」
「ずっと・・・こうしたかった。すぐ側でお前を感じたかった」
手塚の優しい鼓動を耳で、身体中で感じ、余計に止まる気配を見せなかった栞理の涙は、普段の手塚なら到底言わないだろう台詞を耳にした瞬間、驚きで止まった。
それと同時に急激に熱を帯びた頬に栞理は戸惑い、自分の腕の中で真っ赤になっているその様子を見て、手塚は苦笑した。
「おかしいか?俺がそう思うのが」
「い、いいえ!・・・ただ・・・ビックリして・・・」
「おかしいかも知れないな、実際。・・・お前に会えない時間がどれほど長く感じたか。・・・会いたくて会いたくて、気が狂いそうだった。何度も夢に見て、朝目覚めた時の言い知れぬ寂しさ。・・・・・・今こうして抱きしめて、初めて夢じゃないと実感出来たんだ。・・・暫くこのままでいさせてくれないか?」
止まったはずの涙がまた溢れてきたが、栞理はもう無理に止めようとは思わなかった。
寂しくて泣いているのではない。悲しくて泣いているのではない。
こんな嬉しい、幸せな涙なら何度流してもいい。
自分とまったく同じ想いを抱いていた恋人の腕の中で小さく頷いて、自らもそっと広い背中に腕を回した。
暫く抱き締めあった後、手塚は前に屈んで、栞理は背伸びをして、どちらからともなくそっと顔を寄せ合った。
どれくらいの間そうしていただろう。
お互いゆっくりと腕の力を抜いて少し身体を離し、照れくさそうに笑いあった時、手塚は栞理から微かに嗅ぎ慣れない匂いを感じて疑問を浮かべた。
栞理は普段から「無理に背伸びをしているようで似合わないから」と言って香水など付けていない。それとも・・・離れている間に付けるようになったのだろうか。
「・・・香水か何か、付けているのか?」
「え?」
「いや、ほんの少しだが・・・匂いがしたから」
「や、別に何も・・・・・・」
栞理は慌てて自分の服を嗅いでみた。そう言われてみれば、微かに香る匂い。
力強くそれでいてどこか柔らかい、洗練された香り。
「あっ!」
「どうした?」
栞理はおもむろにカバンの中をごそごそと探したかと思ったら、一枚のタオルを取り出し顔を近づけた。
「あ、これです!跡部さん香水付けてるんですね」
思いもしなかった言葉を告げられ、手塚の表情は見る見る硬くなり、眉間にしわが深く刻まれた。
栞理は手塚の表情の変化を疑問に思いながらも、その顔も久しぶりに見れた、と、嬉しさで思わず口元が緩んだ。
「・・・何故跡部のタオルなど持っている」
手塚の疑問はもっともだった。
栞理は別に隠しているつもりもなかったので、さっき偶然(跡部には偶然ではないのだが)会ったと、事実をありのまま述べた。
手塚に再戦を申し込んできた事、そしてそれに勝ったら・・・という事も、戸惑いながらもきちんと伝えた。
手塚は相変わらず不機嫌をあらわにしながら、はぁ、と深く息を吐き出した。
「・・・まったくお前は。どうしてそう簡単に約束などするんだ」
「だ、だって~!なんか悔しかったんです!」
「もし俺が負けたらどうするつもりなんだ」
「えぇっ!?ぶ、部長、負けちゃうんですか?!」
「その可能性だってあるという事だ。跡部は一筋縄では行かない男だからな」
「うわぁん!ど、どうしましょう?!」
赤くなったり青くなったりと表情をめまぐるしく変化させながら、栞理は1人ワタワタと暴れていた。
栞理の相変わらずの鈍感ぶりに手塚の表情も思わず緩んだ。そして再びグイと栞理の身体を引き寄せて抱きしめ、耳元で囁くように言った。
「俺は負けない。安心しろ。・・・・・・跡部に限らず、誰にも渡すつもりはない」
耳まで真っ赤になった栞理が恥ずかしそうに、それでも嬉しそうに頷くのを見届けて、手塚はふと空を見上げた。そして栞理を促して2人揃って空を仰ぐ。
雨上がりの清々しい空気の中、2人の視線の先には、再会を祝うように見事な虹が弧を描いていた。
―――今までの2人の場所を、距離を、時間を、しっかりと繋ぐ架け橋のように。
Thanks for you!
10,000 hit commemoration novel.
言い訳部屋行く?